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ラフィネブラスバンド - 「不必要ということは無い」の巻 Diff

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 第3回目の演奏会が無事に終了しました。演奏会に携わった全ての皆さん、ありがとうございました。感想は次回のコラムに載せるとしましょう。今回のは演奏会の反省もちょっと含まっています。

 ウチのバンドはたいへん若いとアナウンスにもありましたが、キチンと計算したところナント平均年齢24.6歳!(監督は除く)。うーん、すごい(笑)。しかし、やはりというか、精神的に若くてだめだというところも多い。1人ひとりは良い人ばかりなのだが。

 その原因の1つとして、経験値の足りないところが挙げられると思った。自分も、特に指揮がダメでたいへん嫌になったので反省しています(怒泣)。ここで言う経験値とは、何年楽器を吹いてきたか、中高大の活動でどれだけの実績を残してきたかということ、では全然ありません。しいて言ってみれば、どんな環境に生きてきたか、どれだけ常に社会に目を向けてきているか、どれだけいろんな活動に参加しているか、どれだけいろんな仕事をしてきたか、どれだけいろんな役職を経験してきたか、どれだけの人と出会ってきたか、どれだけ本を読んでいるか、どれだけ素晴らしい恋愛をしてきたか・・・・などなど、しいて言えばですが。

 「広い教養」ととらえたら分かりやすいかもしれません。例えば、今回の演奏会でヴェルディの「シチリア島の・・」をやりました。僕はこの曲を通して、”ブラスバンド”という編成が、吹奏楽というよりはオーケストラ寄りのものだなと実感いたしました。(いや、日本の一般的な吹奏楽の概念として、すごく中間的で中途半端な音楽を認めているような風潮が・・(以下省略)・・というだけかもしれませんが。)ちなみに、ウチのバンドで、「シチリア島」をオーケストラのイメージして曲作りした人がどのくらいいるんでしょう?弓の使い方や表現方法、その中での金管楽器や木管楽器などの役割などなど・・・。僕らのは少なからず、音が短く、奏法も中途半端で不揃いなものになっていたように思いました。結局、”それなりに”良い演奏として成り立ってはいましたが、”らしさ”が全然見られないのです。厳しく言えば、なんのために、この編成でこの曲をやっているんだろう?という感想になります。これは岡本さんも言ってましたが、「自分たちの満足感」への追求が甘いんでしょうなあ。もっともっと、こだわって楽曲やスタイルを究める心意気がなければいけないのだ!

 しかし単に、オーケストラの演奏、実際の演奏を知らないと、それはイメージできるものではありません。もっと言えば、いろんなオケの演奏を聴いていたり、また、ヴェルディの生い立ちやヴェルディの他の曲までをも聴き、シチリアの実際の風景を体験し、政治的背景などを加味できていると、より良いイメージを持って演奏できると思われます。この例に限らず、合唱であるとか、民謡や童謡、民族音楽、ジャズ、歌謡曲、本場のブラスバンド・・・を普段から積極的に聴いたり、本などで勉強したり、活動してみたり、興味をもって見ていれば、実際にそのジャンルの楽曲をやるときに役立つのは明らかです。しかし、演奏する楽曲に直面したときに、関係のあるもの「だけ」しか勉強しない態度も愚直な点。直接は関係なくとも、学んだことは広く自分の実となり、演奏面でもその教養が反映されるものと思うのです。それは結果として、個性的な演奏をかもし出す第1歩となるように思います。たとえ不可能なことでも(例えばシチリアへ行くとか)、できるだけ勉強して雰囲気だけでも習得しようと努力しなければいけません。ダメな演奏(失礼)を聴いたって、ダメな例として自分の糧となるのです。

 大事なのは”イメージ力”である!!きちんと吹ける領域を越えた人は(RBBには多い!)、演奏の半分はイメージ力である!と思う。また聴衆にイメージさせる力。そしてそのために自分に厳しい基準がある。上手い人、音楽的に信頼できる人は、この辺がしっかりしているために、自信をもって演奏できているのではないのでしょうか。

 これを考えるにあたって僕の聞いた印象的なエピソードを1つ。高校生の時聞いたことです。僕の高校は進学校でしたが、ある生徒が高校3年生になったばかりの頃、進学の狙いが定まったという。成績は良好で、2年時から順調に学力を伸ばしていたが、夏を前に伸び悩んでしまった。英語教師の担任が何度も相談に乗っていた(これはその教師から聞いた話)。高3になってしていることは、国語、英語、日本史だけ(受験校の科目が3科目のみであるため。数学や理科の授業時間は内職(自分のやりたい科目の勉強)をしている)。そこで、担任はなんと「数学」の勉強を他と同じように勉強するように勧めた(本当の受験科目の勉強時間を削るリスクは当然あった)。しかし担任の思惑は的中し、順調に成績が上がり、見事に合格に至った、というハナシ。

 この話が本当なのかどうかは別として、この先生が言いたかった「数学」の重要性について、僕は良く分かった(僕は理数系の考え方が好きで、音楽にしても理論的に説明できるように考えるのが好きである性格も手伝っている)。「数学」は国語や英語には直接関係のないものに思えるが、考えをつかさどっているもの、つまり自分にとっては「数学的思考」がたいへん必要なもので、それがなくなってしまったら他にも影響が出たんでしょう。目の前のこと”だけ”に固執してしまい、柔軟な考え方が奪われると、本当の自分の力は出し切れないのだと思った。そして、人間の思考力はたいへんデリケートと思ったし、経験値の高い人は幅が広く様々な状況に強いとも思った。自分もそうありたいと頑張るようになった(ような)。

 言いたいことはもうだいたい分かったと思うが、ここまでさんざん必要だと言ってきた数多の「教養」も、身につけるだけではダメで、その教養をいろんな場面で活かす(応用する)だけの器量、理解力、精神的なたくましさが必要(あとは単純に技術も必要(笑))。それが僕の重要視しているイメージの"素”となっていると思うのです。

 例えば、指揮者の言っていることを理解できていますか?そして、その発言の基となっている指揮者の意図をくみとって実践できているか。意図を理解してないことには、いくら表現技術があっても、1週間後に元に戻っている(忘れている)のは必然。また、一部のメンバーだけできていても効果は無く、ここがバンドとして成長できるかの分岐点となると思います(みんなが同等のイメージを持って楽曲に臨めたらどんなに素晴らしい演奏になることか・・・)。練習に出席することがいかに大切かは、こういった視点を持っていればわかるはずなんです。また、習得したことやテンションを何週間も維持し、演奏会で発揮できることができるかも重要(自己管理能力みたいな)。演奏会を終えて実感しませんでしたか?

 井上的に例えを言ってみます。”水”で強い力を与えたいとき、皆さんの場合はバケツの水を手いっぱいにすくって投げるだけ。正解は水鉄砲のようにチュッとやるのがよい。基準となる型枠を決めてそのなかに水を入れ、効果的に力を与える。水も少なくてよいし、力も少しでよい。つまり我々の多くは、能力を振り回しているだけで活かしきれてないというわけ。やり方を考え、バンドで統一し、その中で自分の能力を効率よく発揮させることがもっともっと必要。自分の役割を見極め、把握し、隣近所と相談して上手くサボることも大事。サボるのが大事ではなく、”肝心なときに効果的に実力を発揮できる”ことが大事なのね。平たい演奏は愚です。時間に限りがあるのだから、効率よく練習し、本番で合理的に力を出し切れることの重要性は総会でも言ってましたね。多くは全部ちゃんと吹こうとし(大事なことだけど)、妙に真面目なのが”融通の利かない優等生”みたいでいかん。力が分散しているぞ。音楽に入ったら、スイッチ切り替えて「繊細かつ豪快に」演奏するのが一番!

 自己中心的に、吹きたいように吹き、来たいときだけ練習し、指揮者の言う難しいところは全部聞き流す、というようでは音楽家としても、バンドの一員としても物足りないのは明白。精神的に強くなることは、いろんな人のいろんな意図が理解でき、自分がその歯車(一員)であることを認識できることでもある。何度も言いますが”自分がバンドに必要”と感じれば(感じてくれ!)、おのずとやる気が湧き、時間を作って頑張れるハズ。そしてやり方をシンプルにヶ決めてしまえばもっとやりやすくなりやる気も増大!たかが一般バンドの活動ですが、頑張りを惜しむことはありません。自分と仲間と井上を信じて頑張れば、一生の中でも充実したものとして自分に残ると思いますよ。井上も、今後はもっともっといろんな人に仕事を分けますので、これからもみなで頑張りましょう。結局長いコラムでした。

(03/04/01)